7/30/2011

へらへらとしたものに

この間バンコクにいった。
理由は、行きたかったからというのは、どうだ。
つまり、きっかけにあんまり理由は無い。

たぶん。
私は自国のある側面が大嫌いなので、
ときおり、そこから離れたくなって、
自然、旅行に行くのではないかと思う。
今のようなご時世のときは、特に。

自国よりも、
ちょっとゆるい場所にいって
(大概の場所はじぶんの国よりは、ゆるい。)
じぶんの、のんきだったり不真面目だったり、
ゆるかったり、お気楽だったり、
というような部分を珠のように磨くのだ。
じぶんをへらへらとしたものに戻すのだ。

そうして、じぶんの国に帰り、
きちがいじみた真面目さや、正論や、
画一的な行動や思考を暗にもとめる
善人面した人物やらをやり過ごす。

ま、それはさておき、バンコクさ。
何をしているのかというと、
とにかく歩いただけだ。
歩いては、お店にはいって、ちまちまと買い物をし、
歩いては、おもろいものをみて写真を撮り、
歩いては、くたびれてお茶を飲む。
まあ、基本的にはそれだけだ。
都会ですることは、どこの都会でもかわらず、
こんなものだ。

バンコクは大都会なので、
移動手段が整っていて便利なのと、
食べるものが抜群においしいのと、
ほどよく、国自体がゆるゆるなのと、
すばらしい気候があるので、たいへん、よい。

帰ってきたばかりだけど、
もう、外に出たい。

4/23/2011

ジャムの話。

先日、ジャムをいろいろつくった。
いわずとしれた、いちごジャム。
そして、ブルーベリージャム、クランベリージャム。
レシピは、砂糖は果物の半分の重さで30分くらい煮る、
というやつです。

クランベリージャム、おいしかったなあ。
酸っぱくて。
ジャムを炭酸水で割って(?)消費した。
おいしかったなあ。

ところで、ジャムの話。
ジャムづくりに
ものすごい凝ってた時期がある人物の話。
彼は、同時にあずきものにも目がないという。

その人がジャムを猛烈にいろいろつくっていたときに、
あんまりいろいろやりすぎて、
とうとう遂に
「あずきのジャムはどうだ?」と考えたそうだ。

ゆであずきを用意して、
その半分の量の砂糖を放りこんで、
ぐつぐつぐつぐつ。

煮沸消毒した瓶に詰めて。

そして、蓋をしめた瞬間に気がついた。

「これは、あんこだ。」

と。

まことに、そのとおり。
それは、あんこだ。
ジャムではない。

いや、もしかしたら、あんこはあずきのジャムだ。

2/27/2011

読書決算(1・2月)

さて、1月と2月の購入書籍である。
アマゾンにしか記録が残ってないので、
もしかしたら、本屋さんに寄って買ってる、のかな。

【買って読んだ本】
■シャーロック・ホームズの冒険(C.ドイル)
■緋色の研究(C.ドイル)
■四つの署名(C.ドイル)
■シャーロック・ホームズの事件簿(C.ドイル)
■谷崎潤一郎犯罪小説集(谷崎潤一郎)
■誰からも気がきくといわれる45(すでに破棄したため不明)
■ナマズの幸福(川上弘美)
■まいにち食べたい“ごはんのような
 ”クッキーとビスケットの本(なかしましほ)
■TRANSIT TOKYO ごはん(梶原由景)
■THE ESSENTIAL THINGS 100(梶原由景)
■テリー・ジョンスン秘密手帳(テリー・ジョンスン)

ちゃんとした小説は、
ほぼ、シャーロック・ホームズシリーズのみである。
風呂で読み進めた。
ほかは、エッセイだったり、クッキーの本だったり。
今現在、読書の習慣は、ネットのくらしにだいぶ侵食されている。
心理的に、ネットに繋がってないと、
遅れるとおもうところがあるらしい。
病膏肓に入る前に改善が望ましい。
つまり、下記の書籍群が、読まずと机に置かれているもので、
ネットに侵食される以前には読んでいたものではないかと思われる。

【買ったが読んでいないもの】
□あ・じゃぱん(矢作俊彦)
□漂砂のうたう(木内昇)
□完全なる首長竜の日(乾緑郎)
□追悼の達人(嵐山光三郎)
□追悼私記(吉本隆明)
□追悼記録 網野善彦(赤坂憲雄)
□雑文集(村上春樹)

ちなみに、追悼がやたら多いのは、
高橋源一郎さんと社長が
「追悼」について話していたからだ。
たぶん、嵐山光三郎さんの本は2冊目。
人の追悼文は当然だが心にしみいるので、好き。

2/26/2011

クッキーの理想 1

自分の好きなクッキーの味はわかっているのだ。
しかし、その味がいつもできるレシピはないものかと
去年からいろいろ試してみているのだ。
ちなみに、バターがたっぷりはいった
素クッキーである。

で、本日つくったクッキーのレシピは、下記である。

無塩バター200g
砂糖100g
卵1個
薄力粉400g
バニラビーンズ1cm

さて、これは何をベースにしているかというと、
吉祥寺にあるお菓子のおみせ、
A.K. Laboがなにかの雑誌に出してい
バニラサブレのレシピを
すでにアレンジしたものである。

どうだったのか、というと、
大変おいしかったのだが、
ちょっと甘かった。

砂糖は75gくらいじゃあないか。
次回に期待。

※後に完成されたレシピ
無塩バター100g
砂糖40g
卵の白身の塊の部分だけ捨てたもの
薄力粉200g
バニラビーンズ0.5cm

卵液を表面に塗ってから焼くとなお良い。
天板まで完全に熱くなった状態で180度15分(目安)。

2/20/2011

本当は嫌いなもの

それが好き、ということにすると
なんとなく素敵、という食品があるような気がする。
去年だかなんだかに、そうやってじぶんを騙してるものが
多くあるような気がして、注意深く自分を観察してきた。

そこで、3つのたべものが
「あんま好きじゃない」ということがわかった。

一つ目は、「おかゆ」である。
なんかいいでしょ。雰囲気が。おかゆって。
だから、好きっておもってたんだけど、
熱いし、味がないからしょっぱいものをたくさん食べちゃうし、
なかなかなくならないし。

二つ目は、「ワイン」。
これは、しいたけがダメなようにダメだ。
いや、飲めと言われれば飲むけども。
なんか、進まない。
炭酸がはいってる方は好き。

三つ目は、「ヨーグルト」。
なんか、お腹によくて、ヘルシーでいいじゃない?
雰囲気が。
だから、けっこう買って冷蔵庫に常備してたんだけど、
1回たべて、そのあと食べなくなることがわかった。
つまり、「すてきな自分」はヨーグルトを買って、
一回食べる。
でも、食べてみるとがっかりして、そのままになる、
の繰り返しだったのだとおもう。

たぶん、検証すると、本当は好きでもないものを
「それを食べているわたしは素敵」とおもって、
好きだといっているものは、もっとある。

逆に、それを食べていると素敵ではないものだけど、
大変好きだ、というものも分かっている。
それは「味の素」だ。
自分もちょっと残念だが、事実だ。

2/19/2011

父のこと。

高橋源一郎さんが、
「小説ラジオ」で死んでいった人についてのことを
書いていたので、ちょっと、
また久しぶりに亡き父のことなどを
おもいだした。

思い出さない日もないんだろうけど、
あらためてちゃんと思うこともない。
彼がこの世を去ってから、
数えてみればもう20年ちかくにもなれば
そんな状態だ。

よく、亡くなった人がいまでも生きている、
というように言いながら暮らしている人をみるが、
私は、実のところをいうと、
そのように感じたことが一瞬たりとも、無い。
彼は、完全に向こう側の人となっている。

理由は、母の言葉だ。
父が亡くなってからほどなくして、
ぼそっというのだ。

「お父さんの晩年は、なんだかとても辛そうだった。
 いろいろとても。
 だから、神様は、本当にいい人だったお父さんを
 助けるために、
 ちゃんと連れて行ってくれたんだと思う。」

そうなのか。
ならば、よかったじゃないか。
私は、さびしいなあと思うけど、
それが、父に良いことだというのなら。
そう思った。
そして、それは、父はこの世に未練などないなら、
私のそばにいるようなことは、まず無い。
と、考える根拠にもなった。

ことばひとつだ。
死者と私の関係をつくるのは。
そう思っている。

わたしは、母のことばによって、
父と完全に切り離され、
死んでいる父に依存する思想を持たないですんだ。
自分の弱さをもうひとつ弱くするようなことに
ならないですんだと思っている。

2/14/2011

諦観と無常観。

たぶん、末法思想とかを勉強したのは、
小学校の6年生のことだとおもう。
6年になったら、社会科の授業が急に
歴史の授業になったから。
もちろん、ものすごいさらっと紹介されただけだったけど、
いちおう、「末法思想」「無常観」くらいの
暗記単語には触れているんじゃないかとおもう。

その次にそれを掘り下げたのは、
高校の古典の授業だったとおもう。
(歴史の授業では、掘り下げたりはしないから、
 たぶん。)

そこで、知ってしまった
平安末期にあらわれたその考え方は、
自分にものすごいなじんでしまった。

な~んかもう、バリバリやってる人とかみても、
「行く川の流れはたえずして‥‥」とか思っちゃうし、
自分が調子よくやってるときにも、
「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響あり‥‥」なんつって。

案外多くの場面で、
自分の行動を抑制してきた思想だし、
物事に対して冷淡なことの原因も
これが影響しているとおもう。

いやね、日本の歴史や古典を学ぶ上で
避けては通れない事実だけども、
まあ、結構、覇気を奪う危険なもんだ。
あの、平安末期のムーブメントは。

と、年をとってきて思う。

2/13/2011

モンゴルの草原で。

旅行にいくときに、願うことは、
ごはんがおいしいこと。
いや、目的がごはんで旅行したことは
一度もないけど、ごはんがおいしい旅行は、
それだけで、ほかがつまらなかったとしても
全然構わない。

いままでで、いちばんご飯がおいしかったのは、
タイである。

逆にまずかったのは、マレーシアだ。
すごいパンチのきいてない料理を
つぎから次へと食べた。
運が悪かったのかもしれないけどね。

前から、「馬にたくさん乗る」旅行がしたくて、
ならば、モンゴルだな。とおもっていた。
なんか、よいでしょ?
「モンゴルの草原を馬で。」という風景は。
ただ、それだけなんだけど、
ともかく。

でも、ドキュメンタリーとかで、
モンゴルのパオでたべてる
羊のゆでたのとかは、
自分にとって無理なんじゃないかなあと
思っていた。
いや、目的はごはんじゃないんだけど、
ごはんがおいしくなさそうという理由は、
二の足をふむおおきな理由だ。

が。

先日、「羊一頭を食べる」という
おかしなおかしな企画にさそわれて、
大久保のモンゴル料理のお店にいってきた。
そこで、さばかれて茹でられてでてきた
羊が、ものすごい美味しかった。
意外なさっぱり味。
癖になるやめられない滋味であった。

もしかして、本当にいけるんじゃない?
モンゴル。

いきたい旅行の順位がぐんと上がった。

2/08/2011

東京の6月。

夢をみた。珍しく色がついていた。
それは、ヨルダンの5月だった。
夢の詳細もおもしろかったのだけど、
大概は自分にだけ面白いのが夢の話なので、
もちろん詳しくはしない。

ただ、風景は5月のヨルダンだった。
ちょうど私が旅行にいったころの気候だ。
中東といっても、砂漠砂漠している場所ではなくて、
首都にはほどよく緑もある。
乾燥してさわやかな風が吹く。
寒くもなくて、激しく暑くもない。

20時間を超えるフライトでくたびれはてて、
ヨルダンのアンマンについて、
翌朝友人の家で目が覚めてキッチンでのんびり
ヨーグルトたべてたときのあの幸せな爽やかさ。
あれは、すごかったなあ。
爽やかにすごいという形容詞もないけど、
すごい爽やかだった。

そういう気候のなかのおかしな夢をみた。

でも実は其の気候は6月の頭の東京の気候にも似ているのだ。
私は2009年に、なんでかはわすれたけど、
一年の気候をつぶさに観察した。
とにかく一番いい気候はいつなのかを知りたかったのだ。
その結果、それは初夏の頃だとわかった。
いわゆる「目に青葉山時鳥初松魚」の頃。

6月だと梅雨を連想するが、それは6月の後半だ。
前半は本当に気持ちがいい日が続く。

この寒空に、東京の6月をおもって、
やりすごす。

1/31/2011

とらやのもなか。

先週、湯村輝彦さんと弊社社長との対談に同席した。
いま、彼らの共著の絵本を
復刻する仕事をしているからである。

湯村さんの事務所ででたお茶菓子が、
とらやのもなかであった。
つぶあんの。
アメリカンなエロなゴージャスな彼の事務所で
出てきたお茶菓子が東京のスタンダードで嬉しくなった。
ちょっと、感動もした。

実は、わたしもとらやが大好きだ。
わたしは、おとなになってから
とらやのあんこがやめられなくなった。
あのとらやの看板がでていると、
どんなことがあっても、必ずもなかを買う。
つぶあんが苦手なので、こしあん。
2個とか普通にたべてしまうので、
一番ちいさい「御代の春」である。
白あんもおいしい。

とらやは、なんか「お使いもの」としてしか出会わず、
しかも、慇懃な感じでもらうそれは
羊羹だったりして面倒なことが多い。
でも、それは本当に残念なことだよ。
本当においしいんだから。

そうそう、夏になったら、
トラヤカフェ、じゃなくて、虎屋菓寮にいって、
白玉宇治金時のかき氷をたべるのも楽しみのひとつにしてる。
なにせ、あんこがとらやだから!
あんなに美味しいかき氷はないよ!

1/30/2011

人品ということ。

こういうことを、メモのようにかきなぐってあった。
たぶん、なにかにたいして怒り、
それをなだめるために書いたのだろう。
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私は、正論を言うヤツと、
後出しジャンケンをするヤツが大嫌いなんだけれども、
たいがい、正論を言うヤツは後出しジャンケンをする。
ということも経験上知った。

こういう人品の悪い人物というのは、
善人面をして世間を渡っていることが多いので、
人に及ぼす悪影響というか、
まあ、直接的な迷惑だな、
それを自分が引き起こしているとは、自覚がまったくない。

そして、力に対して見事な追従をし、
見事に尻馬の乗り、
自分の失敗に対しては、薄っぺらい言い訳をするか、
もしくは、巧妙な隠蔽をするのである。

社会の大部分はこんなのばっかだ。
こういう立派風情な人物になるまい、
と私は努力をしている。

1/29/2011

絵に描いたような

「絵に描いたような」といえば、
このブログのことである。
どんな絵かといえば、
「三日坊主」というやつである。
またまた、とか言われるけど、
三日坊主というのはあんがい人生にひょっこりと顔を出す。
腕立て伏せとか、腹筋とかは、よくその坊主にやられる。

それはさておき、先日「絵に描いたような」ことが
もう一つあった。
「絵に描いたような後悔」である。

それは、徹夜あけの朝に、家の間仕切りに使っていた、
tord boontje の until dawn curtain に
ホコリがたまっていたので、
「もう4年くらいもぶらさげてるしね。
 買い替え時だ。」とおもって
さっそくゴミ箱にぽいっと捨てた。

で、ネットを検索して、その値段にびっくり。
14000円である。
その、使っていた until dawn curtain は、
どこで買ってきたかというと、
パリ(フランスやで)の、Habitat というお店。
たぶん、大量の買い物をしていたので、
値段のことが気にならなかったんだとおもう。

悔いた。悔いた。
ホコリ払って使えばよかったと。

しかし、同じものをもう一回かうのは、もはや
後悔の上塗りになるので、やめて、
今度は、algue というものにしようとおもう。

海藻みたいなパーツを組み合わせて、
間仕切りにするというもの。

緑のやつを、買おうと思う。
14000円ぶんくらい。

1/25/2011

家は風呂である。

MacBook Airを買ったことは
先日のここにも書いた。
そして、iPadが仕事には全然
つかえなかったことも同様に。
そこで、私がだした結論は、
「パソコンはキーボードである。」というものだ。

それと似たような結論をだしたことが過去にもある。
それは、表題のごとく
「家は風呂である。」というものである。

それは、文の構造が似ているだけで、
本当は全然似てないんだけどもさ。
まあ、それはさておき風呂と家の関係だよ。

私が今のアパートに入居したとき、
風呂がこわれていて、
一週間くらい銭湯に通っていた。
そして、それはそれは不便な思いをした。
銭湯通いというのは、
風呂にはいる時間のリミットがあって、
夜になると、風呂に入れないかもしれない危機感に
ずっと付きまとわれるのだ。
万が一風呂に入れなかった場合、
それは、「人にあらず」といわれても仕方がない。
すこしでも臭おうものならば、
その先長らく自分の悪評が覆ることは絶望的であるからして、
風呂にはぜひにも入っておかねばならない。
という世界で生きる者にとっての風呂問題である。

そのときに、私は風呂がない家は家とは認められない、
と悟ったのだ。
部屋などは脱衣場の延長だ。
風呂がないならば、家に帰る必要などあるものか、
とまで思った。

たとえば、二徹をしないと終わらない量の仕事があり、
締切りが迫っている場合。
その二徹目の浅い夜に
我々は何をするかといえば、
「とりあえず、風呂はいってくる。」といって
自宅にいったんかえって、
オフィスにトンボ帰りをするのだ。
それだけで、家に帰った気持ちは十分に味わえる。
たとえ家で過ごす時間が1時間に満たなくても。

風呂、それは家である。

1/24/2011

デビューの頃

新年に美容院にいって毛先にパーマをかけて以来、
たのしくて、毛先をアイロンでまいたりなどしている。
おかげで20分ばかり朝の準備に
余計に時間がかかっているのだが。

先日、社長と一緒に会社のキッチンで
しょうがシロップを作っているときに、
彼が、
「モギ、パーマ? それ?
なんか、ミック・ジャガーの
デビュー当時に似てるな。」
と言う。

あまり、ローリング・ストーンズには
造詣が深くないので、
「いいことではない」と考え
となりの席の同僚に、こんなことを言われた。
と、愚痴をこぼしてみたら、
「案外褒め言葉かもよ。
若い頃のミック・ジャガーというのは、
とてもカワイイ雰囲気があって、
魅力的なビジュアルとして認識されていたよ。」
これを聞いて、小躍りしないでか。
うきうきして、家路についたのであった。

が、翌朝、その同僚から、
「心して読んでくれ・・・」というメールがきた。
ひらいてみると社長が書いた文章のなかに、
こういうものがあった、と。

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・ぼくは、ミック・ジャガーっていうロックスターを、
かっこいいと思っているし、
ミック・ジャガーの顔も、かっこいいと思っている。
しかし、デビュー当時は、そう思ってなかった。
へんな顔のボーカリストだというふうに見ていた。
だんだん時間が経つにつれて、
日本人にはわからないけれど、
イギリス人とかアメリカ人にとっては、
「ああいういい男」なんだろうと考えるようになった。
おおげさに言えば、じぶんの美意識をですね、
国際標準に合わせちゃったつもりでしたよ。


つい最近、ミック・ジャガーの娘さんの
インタビューを読む機会があって、びっくりしたんです。
「父は、ほら、あのとおりの顔でしょ?」
というようなことを言ってたんです。
そうだったのか、「あのとおりの顔」で、
しかもかっこいい存在‥‥っていうことでよかったんだ。


どうして、おれは、
じぶんのほうを変えちゃったんだ、と、反省。
こういうことって、意外と多いんじゃないかなぁ。
気をつけたいことです。
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そ、そ、そうか……。

1/23/2011

はじめに。

先週の日曜日にMacBook Airの11インチを買った。
Macを使い始めた頃から、
薄くって軽くって持ち運べるMacが
ほしいなあと考えていて、
ついに! ついにでたんじゃないか?
とおもって使ってみたら、それは「ついに」だった。

その直前にでていたiPadもその最終型だとおもったのだけど、
キーボードが画面に表示される形式で、
つかいかってがよろしくなかった。
どうやら、わたしにとってパソコンというものは、
キーボードがしっかりしてないと、
その用をなさないということがわかった。
わかっただけでもとてもありがたかった。

で、そのiPadは、知人に頼んで買い手をみつけてもらい、
売れたお金を資金源にして、手に入れたのだ。

毎日、ちょっとうきうきして使っている。
PCの前にいるのがいやにならないので、
だいぶ文化として廃れてきてしまったけれども、
ブログを開設してみた。

いつまで続くかわからないけども、
そういうわけなのでした。