MacBook Airを買ったことは
先日のここにも書いた。
そして、iPadが仕事には全然
つかえなかったことも同様に。
そこで、私がだした結論は、
「パソコンはキーボードである。」というものだ。
それと似たような結論をだしたことが過去にもある。
それは、表題のごとく
「家は風呂である。」というものである。
それは、文の構造が似ているだけで、
本当は全然似てないんだけどもさ。
まあ、それはさておき風呂と家の関係だよ。
私が今のアパートに入居したとき、
風呂がこわれていて、
一週間くらい銭湯に通っていた。
そして、それはそれは不便な思いをした。
銭湯通いというのは、
風呂にはいる時間のリミットがあって、
夜になると、風呂に入れないかもしれない危機感に
ずっと付きまとわれるのだ。
万が一風呂に入れなかった場合、
それは、「人にあらず」といわれても仕方がない。
すこしでも臭おうものならば、
その先長らく自分の悪評が覆ることは絶望的であるからして、
風呂にはぜひにも入っておかねばならない。
という世界で生きる者にとっての風呂問題である。
そのときに、私は風呂がない家は家とは認められない、
と悟ったのだ。
部屋などは脱衣場の延長だ。
風呂がないならば、家に帰る必要などあるものか、
とまで思った。
たとえば、二徹をしないと終わらない量の仕事があり、
締切りが迫っている場合。
その二徹目の浅い夜に
我々は何をするかといえば、
「とりあえず、風呂はいってくる。」といって
自宅にいったんかえって、
オフィスにトンボ帰りをするのだ。
それだけで、家に帰った気持ちは十分に味わえる。
たとえ家で過ごす時間が1時間に満たなくても。
風呂、それは家である。